昭和50年11月2日 朝の御理解
御理解第四節 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる」
この頃から、身凌ぎの信心といったことを頂きましたでしたね。おかげは金光大神が下さるのではない、おかげは天地金乃神様が下さるんだということですね。天地金乃神様のおかげが受けられるようになったのは、此方金光大神のおかげである。おかげを下さるのは天地金乃神様、その手立てというか、天地金乃神様のおかげというか、どういうような在り方にならせて頂いたら、天地金乃神様のおかげを受けられるかということを、教祖金光大神は教えておられるわけであります。ですから、どうでも金光大神の言うことに背かぬようにという信心がなされなければ、天地金乃神様のおかげは受けられんということになるのです。
お互いどうでしょうか、こうして金光様の御信心を頂くようになって、本当に金光様の信心がなからねば、私はどうなっておっただろうか。私の家はどうなっとっただろうかと、その思いがいよいよ深うなれば深うなるだけ、天地金乃神様が仰っておられますように、「神からも氏子からも、両方からの恩人は此方金光大神」と仰っておられますが、本当に金光大神様しか私どものおかげを受けられるようになった人間の本当の幸せを分からせて頂いたという、その恩人という思いが、いよいよもう強うなったということが、お道の信心が分かってきたということなのです。
だから、そこまでおかげの頂けれる一つ信心をさせて頂きたい。私はいつもそこのところの実感というか、本当に金光様の信心がもしなかったら、今日の大坪はなかったかもしれん。今日の合楽ということは勿論なかっただろう。まあ思えば思う程、有難いのですが、その有難いということの中にも、このことを教えられたということが本当に有難いと、私が思うところがね、今日は私、神様にお願いさせて頂きました。
それから、本当に自分の心の上に、あることを願わして頂いておることが、右と願っておったことが左になった。その左になったということが私は、本当に有難かった。願っておるのは右に願っておるのです。ところが左になった。その左になったことが非常に有難かった、ことを昨夜からのことですけれども、今朝もまだ、その思いが心に残っとるから、そのことをお礼申しておりましたが、御心眼に「林与一」と頂きました。映画俳優がおりますでしょう、林与一と。林与一ですかね、映画俳優です。
林という字は、木を二つ書いて「林」です。与一というのは、与える一つ。一つを与えるということ、ね。ああ成程と私は思うたです。私どもが神様に色々とお願いさして頂いて、どうぞ右になりますように、左になりますように、痛ければ痛いように、痒ければ痒いように、やはりそういうことを願います。けれどもね、痛いことが治るように、痒いことが治るようにと言うてお願いして、より痛くなったり、より痒くなったり、その時点でね、「有難うございます」と言えれる心を育てて頂いておったということが、もう何を言うても一番素晴らしいことです、今の私にとって。私は人間の幸せ、仏教的に極楽というのはこういうことだろうと思うです。
皆が、信心と言えば、お願いをする。そしてお願い通りのおかげを頂く。そしておかげを頂ききらんと、神様がおかげをやりきんなさらんじゃったというように思うたりする。また、中には、自分の一心が足りなかったので、おかげ受けられんじゃったというて、一段と信心を進めて行く者もある。だからそれも結構。けれどもね、私はもう出たとこ勝負というか、その時点をね、願ったことの反対であっても、そのことが有難いなあということです。
先日から、そこの合楽食堂の、長男の徹美君が、毎朝こうやってお参りができるようになった。勤めに出ておったところが、自動車に追突をされて、自動車も崩れる、自分もやられて、それで病院に入院させて頂いとりますけれども、それが入院してチャンとしているということでもないですから、もうほとんどここへ来てお参り、信心の稽古をさして頂いとります。
先日も、たまたま,夜遅く出てきましたら、食堂で、若い人達ばっかり、信心の話をしとるところに、まあ言うことなんですけれども、「本当に今度の事故というのは、本当に素晴らしい。僕の生涯においてですね、一番素晴らしいことになるかもしれない。こんなに例えば、合楽教会に浸るようにして信心の稽古が出来るのは、事故に遭ったおかげである」と言うのです。
信心しよったけれども事故に遭ったというのではなくて、そこへ自分の心が、神様へ向かうということ。そのことによって、より一段と向かわれるということ。そのことが有難い。私はこのことをいよいよ思わせて頂いたんですけど、この「林与一」ということ。例えばお願いをする。右になるか左になるか分からないけど、私どもはやはり右になる程が良いから、「どうぞ今日も事故に遭いませんように」と言うて願うのです。
そして、なら、事故にあった時にです、そのことに対して、一段と有難いと御礼が言えることがです、素晴らしいでしょう。何時の間にこういう心が育ってきたかというくらいに、そのことが一番有難いです。それは勿論、ここ何十年の間、皆さんに聞いて頂いとるように、成り行きを大事にするということ。もうこの成り行きを大事にするということは、もう素晴らしいということです。
そりゃ、私どももいろんな思いがあります。願いがないじゃない、ありますから、「どうぞ右になりますように」とお願いをして、右になったその時点をね、有難く頂くということです。こういう生き方をいよいよ身に付けて行くならばです、もう絶対のおかげが受けられる。絶対のお徳が受けられる。いよいよ、人間の幸せはここに尽きると思う程しのおかげが受けられる。そういう心の状態に、神様はもう限りなくおかげを恵んで下さる。「与一」というのは、与えるということ。
自分の思うようにならなっかったことは、御礼を申さして頂いとりましたら、神様が「林与一」と頂いた。二つの心、「林」というのは、木が二つですから、それは二つ心と頂く。それが例えば、右と願っておったけれども、左となった時にです、本当に御礼が言えれる心、こういう心を、いよいよ本当なものに育てて行きさえすればです、もう必ずおかげが受けられるです。
同時に、私自身がその時点で助かっておる。それは何故かと言うとね、神様のお働きに、一分一厘間違いのないことが、段々確信付けられて来たからです。神様にお願いをしたら、もう絶対おかげの方しか下さらんと思う。ただ、人間の方が、右の方が良いと思うたり、左の方が良いと思うたりだけですけれども、神様は、必ずおかげの方だけしか下さらん。人間、本当の幸せになることの為のおかげしか下さらんという中の、この思い込みが出来るというまで、私は、信心の稽古をせにゃいかんと思う。だから、いつも有難い中に自分がおれるわけなんです。
例えば、それは、事故に遭うて痛い思いですらも有難いということが分かる。だから、そういう、例えば右と願えば左となるというようなね、言うなら、痛いのが治るように願うたら、なお痛うなったという時にです、いよいよ神様に心を向けるということが大事だということが分かります。
私は、金光大神が教えて下さってあるおかげの中でね、これ程素晴らしい、私が本当に、金光大神は命の大恩人であると、もう実感出来れる。おかげを頂いていることは、右になっても、左になっても、なら、願うことは願う。右がよかろうごたったり、左がよかろうごたったりすればね、けれどもそのおかげがね、右に転ぼうが左に転ぼうがそこの時点で有難く思えれる心こそ、極楽に行っている人の姿ではなかろうかと思う。
こういう心の状態をいよいよ本当なものにして行く。限りなくその心を神様に向けて、いよいよ有難い心にならしてもらう。和賀心にならしてもらうと、これは日常生活の中にです、起きてくる、言うならば小さな問題でありましてもです、それがおかげと頂ける時です。その稽古です。成り行きを大事にするということは、その時点を有難く頂くということです。「ほら、困った、こげなことになりました」と。「いや、それはおかげじゃが」と言えれる信心を頂きたい。いや、私自身そこんところが頂けておるところがです、ね、そういう心で、あら、御教えのすべてが頂けれることがです、何と言うても最高に有難いこと。金光大神、成程私の大恩人であると思わせて頂けれるおかげ、そういう心の状態をです、一つ皆さん本気で頂く。
それはね、初めの間は、本当に、どうでも右になりますようにと、例えば、なら、子供の試験のこと願うとするが、もう本当に試験に合格させてもらいたいばっかりに、一生懸命お参りもした、修行もさせてもろうた。ところが、合格しなかった。不合格であった。その時点では、ああおかげ頂きらじゃったと、例えば悲観の心が起こるわけでありますけど、実際は、これが本当はおかげであると思い込ませて頂く稽古をさしてもろうて、なら、落第したことが、不合格であったことがです、残念と思うたら、その残念と思うた心で、神様へ向かうて行くのです。そして、半年経ち、一年経ち、二年、三年、五年、十年経ってからです、成程、あの時合格せんで良かったということがはっきり分かってくるです。
それを、例えば、私の場合は、もうその場でおかげと実感出来ることが有難いです。神様の働きに間違いはない。お互いがね、私は先日、本をちょっと開いたところにね、私が自分で書いているんです。「おかげの泉は極楽行きの話ばかり」と書いとるのです。これはいつ書いたか自分で覚えませんけれどね、おかげの泉とはここで毎月出ている本のことです。おかげの泉は極楽行きの話ばかり出ているわけです。
そこで、なら、おかげの泉とはどういうことか。その内容はどういうことが書いてあるかというとです、今日皆さんにも聞いて頂いたようなことが、あらゆる角度から、それは同じ話は一つもありません。いわゆるあらゆることから、そのおかげを説いてあると思うです。ね、皆さん、本気で、あの世で極楽。この世で地獄のようなことをしていてです、あの世で極楽はありえませんです。この世で極楽の境地を開かせてもらう。これ程有難いことがあるだろうか。私のような幸せなものがあるだろうかと思えれる心を、いよいよ、この世で開いて行く稽古が、私は金光教の信心だと思うです。そしてその心が、この霊がね、このままあの世に持って行けるから、これは私は極楽に行けると確信できるわけです。
「おかげの泉は、極楽行きの話ばかりなり」であります。ですから、この極楽行きということは、ほらあ信心さしてもらいよったら、お金をこんなに沢山儲かった。こんな金殿玉楼のようなお家が出来た。毎日百味の御食が食べられる。そりゃ、絹布に巻かれて日々が有難いということが、必ずしも極楽ではない。金に埋まっておって、もう死んだがましというように、難儀をしている人があります。沢山なものに、沢山な召使いに取り巻かれながらです、毎日毎日が不平で不足という人があります。極楽ということは決して金殿玉楼のようなお家に住んで、百味の御食が食べられることじゃないことが分かります。
どのような中にあっても、今日私が皆さんに聞いて頂くように、出たとこ勝負。やはり私どもは我情がある我欲がある。そこで、自分の我情我欲を願ったとするが、ところが、右と願って左になった時にです、ああこれが神様のおかげであり、神様のお心であると頂けた時、もう今までの我情がそれで取れたことです。
素晴らしいことである。「我情我欲を放れて広き真の大道を開き見よ。我が身は神徳の中に生かされてあり」と教えられております。その我情我欲の為にお互いが苦しんでいるのです。ところがなかなか難しいです。我情我欲を取る、そしてどこまでが我情やら、どこまでが我欲かすらが分からんです。
そこで、私が今日皆さんに聞いて頂いたようにです、成り行きを尊ぶとか、成り行きを頂くことが大事なのだ。右と願ったけれど左となった。まあこれが神様のおかげであり、神様のご都合に違いはないと思う時に、我情我欲がその時点で取れてしまった。これが繰り返されて行くうちにです、成程我情を取ればこのような御神徳の中に生かされてあるという、素晴らしいタイミングが生まれてくる。素晴らしい御繰り合せが頂けてくる。
そうして、金殿玉楼のような家であり、そして巨富の富であり、そして、絹布に巻かれ、日々百味の御食が頂かれて、それこそ本当の意味においての極楽、ここの心を開いてから頂いたのでなからなければ、それが却って、それが災いの元になる。おかげを受けたのが却って災いの元になってはつまらんでしょう。そこでなんと言うても、根本的なところをね、本当の根本的なところ、いわゆる神愛を分かるというかね、一切が神様ということが本当に分かる。
だから、なかなか分からんのだけれども、今申しますように、成り行きを大事にする。成り行きを尊ばしてもらう。右と願ったけれども左となった。その左の時点をです、それこそ林与一じゃないけれども、神様がこれを私に与えて下さったと合掌して受ける心の状態をです、繰り返し繰り返し稽古さして頂いているうちに、稽古の都度に、我情が取れて行く、我欲が取れてくる。そこに、自分の心の中に、我が身は何と神徳の中にあるという信心の喜びに浸らしてもらうことが出来る。
おかげの泉は、極楽行きの話ばかりなりであります。ここで皆さんに聞いて頂いとるお話は、おかげの泉というのは、月に一回、一日分だけが収録されておるだけであっても、それであるのです。ですから、日々、こうやって皆さんが聞いて下さるということは、毎日毎日極楽行きの話を聞いているのだけれども、何時まで経っても極楽行きが出来ないことは、皆さんの我情我欲が、自分の思うこと成ることだけが極楽行きの思いをしておるから、何時まで経っても極楽行きが出来んのです。もうこれは絶対です。もう一切が神愛です。一心に願い、一生懸命に願うてです、右が左になることは、これは素晴らしいことです。
だから、その時点をです、有難く受ける時にです、すでに自分の我情が取れたことになるのです。私は、我情我欲はこういうふうにして取れて行くんだなあと自分で思いました。と今日改めて思います。成程我が身は神徳の中に生かされている喜びを、私は日々これを経験させて頂いているのであり、体験させて頂いているのであり、そこんところを教えて頂いたということが、もう何を置いても、金光大神は、成程私の大恩人だということになるのです。
せっかく皆さん信心なさるのですから、せめて親先生を私の大恩人と皆さんが思うて下さるところまで、信心を進めねばいけませんね。本当に、親先生この世になかりせば、現在の私の家はございませんというような人が、合楽には沢山おるということが合楽の力です。その合楽の力ということが、いよいよ世の中に光を投げる力を頂くことになるのです。
力がない者がいくら集まってもです、それは烏合の衆ですから、本当に親先生なかりせば、もし合楽がなかったら、今日の私はなかった、今日の私の家はなかったというくらいなです、言うならば一線上を出たところのおかげを一つ頂いて欲しい。おかげのいつもトップに立たしてもらうようなおかげを頂いてほしい。そして、このおかげはです、合楽あって初めて頂けたんだという思い込みがです、それが合楽の光であり、力になるのです。そういう人達が集まらなければ、世の中を清めるとか、和賀心時代を創るということは到底出来ません。
ただおかげの亡者、ただおかげ頂きたいばっかりの人が、いくら集まったって、これは烏合の衆です。言うなら、天地の親神様が喜んで頂けるような合楽教会になりたい。天地の親神様に喜んで頂けるような、一人一人の信者氏子にお取り立て頂きたい。そういう願いを込めてです、今日私が実感させてもらう、「林与一」のおかげを頂いて頂きたい。
心は二つであったけれども、神様が、右と頂けばそれもありがたい、けれども左になった時も、それも有難いと頂かして頂ける心、神様に与えられたものとして、合掌して受ける心。この稽古を日々繰り返さして頂くところからです、いよいよ金光大神は、私どもの大恩人であることが分かるようになります。
それを端的に言うと、親先生あって、私、親先生この世におられなかったならば、今日の私はないという程しのおかげを頂けた時に、私と皆さんとの、言うなら、切っても切れん絆というものが生まれてくる。それが合楽の力になる。それが世の中がいよいよ明るくなる。世の中に沢山の人が助かって行くところの原動力になる程しの素晴らしいことなのですから、まずは皆さん自身が、日々、本気で、私こそ極楽と言えれる。極楽のおかげを目指さなければならない。
為には、自分の思うようになったらおかげ。思うようにならなかったらおかげでないといったような、間違った考え方を捨てる稽古を、まずしなければならない。お願いをして起きてきたことだから、それは事故に遭うておってもです、そのことがおかげであったと気付かせて頂くように、それをもう、即その場で、おかげを感じられる信心。それを、今日は、言うなら、本当に心が救われ、助かった人の姿だというふうに聞いて頂いた。
皆さんが、こうして合楽通いをなさるということは、言うなら、いよいよ以て、この世で極楽のおかげを頂かせて頂くための精進をなさっておることになるのです。 どうぞ。